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志野焼作品はすべての商品が我楽洞では高額買取対象です
志野焼(しのやき)は、桃山時代に岐阜県美濃地方で焼かれた志野釉と呼ばれる長石釉(ちょうせきゆう)を掛けた焼物です。
志野は16世紀末頃に大釜と呼ばれる美濃主流の窯で焼成されました。製品には単品制作ともいえる茶陶と椀皿などの量産品があります。茶陶には手法により無地志野、絵志野、紅志野(べにしの)、鼠志野(ねずみしの)、練り上げ志野、赤志野があります。
そんな桃山時代からの焼物の原点となった志野焼の作品を高価で買取しています。ぜひ一度、陶器・陶芸に詳しい我楽洞にご相談ください。
志野焼の買取について
略歴
桃山時代 16世紀中盤 |
中国から多量に輸入されていた、「白磁」。日本で初めて白磁に似た白い焼物がつくれるようになりました。志野は、それまでになかった「釉」(うわぐすり)と装飾法をまとい、新しい形をしたやきものを作り出しました。 |
桃山時代中後期 | 「白磁」その釉下(ゆうか)に鉄を顔料として絵文様を書き始めた。(同時期に九州の唐津でも釉下の絵付けが始まっていますが、志野とどちらが早いかは不明です)。そして新しい形とは、円形が基本であった茶碗に歪みをつけて変形したことです。これは桃山時代の茶碗に共通して見られます。茶碗以外でもそれまではほとんど見られなかった四角い器が造られています。 その豊かな造形と相まって桃山時代の茶の湯の世界で一世を風靡するが志野は、わずか40年で茶の湯の流行の変化により姿を消し、その後、焼かれることが無くなってしましました。 |
昭和初期 | 志野に再び照明を当てたのが後に志野の技術で人間国宝となる荒川豊蔵で志野復興のきっかけをつくる。さらに加藤唐九郎や北大路魯山人が、それぞれ独自の志野を焼き、昭和の志野が開花する。 |
平成 | 人間国宝・鈴木藏を筆頭にして、また新しい現代性あふれる志野が登場する。 |
もぐさ土と呼ばれる柔らかい土を独創的で多様な形に成形し、白い長石釉(ちょうせきゆう)をたっぷりと掛けて焼き上げると、柔らかな乳白色の焼物が生まれます。釉切れや釉が薄くなったところなどに淡い緋色が生じることもあり、これも見どころとなります。無地志野、絵志野、紅志野、鼠志野、練り上げ志野、赤志野があります。
無地志野は、文字通り長石釉を掛けただけのもの。
絵志野は、釉下に鉄を顔料として絵文様を描いた。
鼠志野は、全体に鬼板(おにいた)と呼ばれる鉄釉(てつゆう)を塗って、文様としたい部分を掻き落として長石釉を掛けたもの。文様部分は白だが、鉄釉を塗った部分が鼠色に発色する。
赤志野は、鼠志野と同様だが、赤く発色したもの。
紅志野は、これも鼠志野と同様だが、赤く発色し、文様は鉄の顔料による絵付。
練り込み志野は、白い土に鉄分の多い赤い土を合わせて轆轤で焼き、白赤の土がマーブル状の模様になったものを言う。
そして時間をかけてゆっくりと焼成された志野は、焼き上がりが柔らかです。
降り積もった淡雪の様な釉の下から、ほのかに表れた赤い焦げ(緋色)は、志野の見どころとなっています。
志野焼の代表的な有名作家
荒川豊蔵
昭和5年、それまでは瀬戸で焼かれていたとされる桃山時代の「志野」の陶片を、美濃の大萱の牟田洞窯跡で発見し、志野が美濃で焼かれていたことを明らかにした荒川豊蔵。志野の事を解明した後は志野の探求、復興に取り組み、志野焼を中心に作陶を続け、志野・瀬戸黒の人間国宝となった。豊蔵志野は、穏やかで柔らかさが魅力である。
加藤唐九郎
志野が語られるとき、荒川豊蔵と並び必ずその名前が挙がるのが、加藤唐九郎である。豊蔵と同様、志野に創作と研究の両面からアプローチするものの、桃山の写しにはとどまらない独創的な志野茶碗を焼いた。志野焼の他に、古瀬戸、信楽、唐津、高麗茶碗なども手掛けたが唐九郎の基本となったのは志野・織部・黄瀬戸。中でも思い入れが深いのが志野であったように思われる。
北大路魯山人
荒川豊蔵・加藤唐九郎と並ぶ、志野のもう一人の巨匠が北大路魯山人である。豊蔵・唐九郎が茶陶の領域で志野に挑んだことに対し、魯山人は「食器」において、現代の志野の可能性を見出した。桃山時代には存在しない、鼠志野を窯変させた「紅志野」の鉢や向付、ビールジョッキに関しては、決して追随を許さないという、魯山人の自由な精神性を読み取ることが出来る。
鈴木藏
ガス窯焼成というテクノロジーを誰よりも早く用い、現代的で清新な志野の作風を築き、1994年に志野の技術で人間国宝となった。伝統的な志野の魅力を噛み砕き、決して古典に縛られることなく、抜群の技術力で「自然と一体となる」という独自の創作観を表現する。多彩で美しい、艶やかな「藏志野」を作陶している。
加藤孝造
荒川豊蔵の教えを受け、豊蔵が志野を制作した大萱牟田洞のすぐ近く、久々利平柴谷に桃山時代と同じ穴窯を築いた。以来40年近く、志野や瀬戸黒、黄瀬戸を焼き続け2010年に瀬戸黒の人間国宝に認定された。しかしその道程は、単に桃山美濃陶の技術を踏襲するだけでなく、伝統の根源にある美をつかみ取ろうとするものである。
若尾利貞
鈴木藏・加藤孝造と並び、現代の「志野三峰」の一人に数えられている。抜き文様の白、長石釉の掛け残しによる鉄色の黒、さらに金彩銀彩を駆使する。鼠志野の作品で、多くのファンを持ち、大きな丸皿や長方皿、月や菖蒲、萩や富士、波などの文様を絵画風に施して、叙情豊かな作品世界を構築する。「鼠志野」の技法における、現代の第一人者である。
酒井博司
想像も出来なかった、「藍色」の志野で、志野の新たな局面を切り開いた。従来の志野茶碗に見られた梅花皮(かいらぎ)は、枯渇した湖の地面、ただ大地を覆う亀裂のイメージへと変わり、伝統的な茶碗の見所から、「意匠表現」に変貌した。球体、半球体をベースにしたその造形は、器の全面を覆う青い梅花皮と融合し、スマートに立ち上がっている。
加藤高宏
加藤唐九郎の孫になる高宏は、日本独自のもの、歴史の中で培われた「自分に血肉化した何か」を問いつつ、創作としての茶碗づくりに挑戦する。鋭くエッヂの効いたシャープなフォルムに、白い長石釉をまばらに流したような志野茶碗は、加藤の代表作品のひとつである。強さと柔さ、緊張感と温かみ、男性用と女性用など、相反する要素を併せ持つ茶碗を制作する。
志野焼の代表作品
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- 卯花牆(うのはながき)
- 1955年作品
国宝であるが作者不明である。志野随一の茶碗と言われている。志野焼の代表的な茶碗と言われているが、単品に限らず複数作陶されているので作者不明のまま埋もれている事が多い。
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- 里帰り
- 1942年 荒川豊蔵作
一度手放した後、持ち主により戻ってきたことにから銘が付けられた。豊蔵初期作品の1つで、赤土で作られている。
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- 氷柱(つらら)
- 1930年 加藤唐九郎作
荒川豊蔵が志野の陶片を美濃で発見した同年に、瀬戸で焼いたもの。箱書に「藍は藍より出でて尚青く氷柱は水より出でて尚冷し」とある。
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- 紅志野ジョッキ
- 1935年 北大路魯山人作
魯山人の器の中でも、最も魯山人らしい人気の高いビールジョッキで魯山人自身もビールを好んだ。
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- 志埜茶碗
- 2008年 鈴木藏作
眼にも鮮やかで、精彩に富む長石の白釉と、素地に鬼板(鉄釉)を打つことによって釉は緋色を呈し、再び熱を帯びた溶岩の様な激情を表している。
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- 志野花入
- 2008年 加藤孝造作
鮮やかなピンクの緋色に、釉薬の縮れが美しい「梅花皮」(かいらぎ)。それまでの食器としての志野とは別世界の様なシンメトリカルに挽いた茶碗や水差、花器を手や箆で歪める美を作り出す。
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- 鼠志野春秋文大皿
- (ねずみしのしゅんしゅうもんおおざら)
1989年 若尾利貞作
「鼠志野」若尾の代表作。大きな丸皿に月を始め様々な技法でまるで絵画の様に仕上げている。銘の春秋とは春と秋の月に景色を表している。
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- 藍色志野花器
- 2008年 酒井博司作
「本人は自分の事を「ヒビフェチ」というくらいでとても「梅花皮」にこだわっている。だが師のピンクの緋色を捨て、呉須(ごす)の青を使った。そして球体・半球体にこだわった代表作である。
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- 志野花器
- 2008年 加藤高宏作
土というものが正直な素材であるから、その時々の自分の気持ちで立ち向かうシンプルな考えでデッサンもせずに思うままの形をつくり、釉薬をかけるという作品になっている。
志野焼作品の高額査定ポイント
人気の作品なら査定額に期待
志野焼の有名作家の作品であって作陶個数が少ないほど好まれます。
保存状態は査定に大きく影響
作品にカビやシミ、日焼けあるいは破れ・破損がある場合には、査定に大きく影響してしまいます。普段から風通しの良く直射日光が当たらない場所に保管するのが良いでしょう。
鑑定書があれば査定がよりスムーズに
対象の作品に鑑定書があれば、査定の際に一緒にご提示ください。鑑定書があることによって一定の価値が確認でき買取がよりスムーズに行なうことができます。
専門書・本に出ている作品は査定額に期待
美術関連の雑誌や、美術書・専門書に出ている作品は、高価買取が可能です。
志野焼作品の買取に関してよくあるご質問
古い焼物を頂いたのですが、調べたところ、志野焼の様な、中国からの輸入品だかわからないので出張査定をお願いしたいのですが、可能ですか?
確かに、初期の志野焼は中国からの輸入陶器を真似して白くしたものがあります。我楽洞には、中国陶器にも志野焼にも詳しい鑑定家がおりますのでぜひご相談ください。
志野焼の様なんですが、蓋のついた丸っこい小さな焼物なんです。出張査定をお願い出来ますか?
取っ手のついた蓋の焼物を「香合」(こうごう)と言います。桃山時代に志野焼の香合は沢山焼かれていたので、ぜひご相談下さい。
祖父から譲り受けたものなのですが、古い木箱に「白織部」と読めるような文字が書いてあります。調べたところ織部焼で白織部が出てきません。出張査定をお願い出来ますか?
白織部とは織部の名はついていますが、初期の志野焼の確立が高いです。陶器、骨董品に詳しい我楽洞にぜひご相談ください。