和歌山県和歌山市と絵画の歴史
和歌山市は、和歌山県の北部に位置する和歌山県の県庁所在地で、和歌山県で最大の人口を有しています。市内に紀の川が流れ、大阪湾に注いでいます。和歌山の地名の由来は、和歌山市の南西にある和歌浦が関係します。奈良時代の聖武天皇は、「明光浦」(あかのうら)と呼ぶ詔を出した一方、聖武天皇とともに訪れた歌人の山部赤人は、万葉集で「若の浦」と記しました。平安時代になると、幾つもの歌の中で「和歌の浦」と詠まれました。安土桃山時代に豊臣秀吉が和歌山城を建てる場所を岡山に選び、南にある和歌の浦と合わせて、「和歌山」という地名を記しました。以後、和歌山の地名が定着しました。
古代の様子を記した書物の中に、和歌山の地名が多く登場します。大和盆地に興った大和政権が紀ノ川の水運を利用したことが考えられます。中世の和歌山は、強力な支配者が現れず、農民たちは比較的自由な暮らしを送っていたようです。江戸時代になると、徳川御三家の一つ、紀州徳川家の支配下になり、和歌山は城下町として賑わいを見せました。1889年(明治22年)に和歌山市が誕生します。以後周辺の町村を編入して現在の和歌山市が形成されました。
和歌山市にゆかりのある作家として、「下村観山(しもむらかんざん)」、「川端龍子(かわばたりゅうし)」「ヘンリー・ユズル・スギモト」を紹介します。下村観山は、明治から昭和時代にかけて活躍した日本画家です。和歌山市で生まれた下村は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学し、岡倉天心に師事します。卒業後は、東京美術学校の助教授を務めました。その後、横山大観や菱田春草らとともに日本美術院を中心に活動しました。歴史画の作品が多く、日本画家でありながら洋画の技法を取り入れるなど、明治時代以降の日本画壇に大きな影響を与えました。
川端龍子は、明治から昭和時代にかけて活躍した日本画家・俳人です。和歌山市で生まれた川端は、新聞社が主催した絵画展に入選したことをきっかけに画家を志しました。白馬会洋画研究所や太平洋画会研究所で油絵の技法を学び、その成果として帝展や院展で多くの作品の受賞へとつながりました。1959年(昭和34年)に文化勲章を受章し、1966年(昭和41年)には和歌山市名誉市民に推挙されました。
ヘンリー・ユズル・スギモト(日本名、杉本謙)は、大正から平成時代にかけて活躍した画家です。現在の和歌山市で生まれたヘンリーは、祖父母に養育されたのち、両親の住むアメリカに渡ります。カリフォルニア州オークランド芸術大学を卒業後、フランスに渡り藤田嗣治らと親交を深めます。しかし、1941年(昭和16年)から始まった太平洋戦争の影響で、ヘンリーは強制収容所で終戦まで過ごしました。強制収容所で過ごしていた時に描いた作品が、日系人強制収容所の歴史的記録として注目を浴びることになり、現在はアメリカのスミソニアン博物館などで保存されています。また、和歌山市役所玄関ロビーにはヘンリーが制作した大壁画が展示されています。下村観山、川端龍子とヘンリー・ユズル・スギモトの作品は、和歌山市にある和歌山県立近代美術館にて公開されています。
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【和歌山市の絵画買取対象作品】
日本画、洋画、現代アート、リトグラフ、掛け軸、浮世絵、版画、仏画、山水画、花鳥画、木版画、屏風、書、襖絵、ガラス絵、板絵、エッチング、シルクスクリーン、色紙、短冊、古文書、和本、手紙、葉書、古書、地図、肉筆、古筆、画賛、版画、油絵、水彩画、中国絵画、中国掛け軸、朝鮮絵画、その他希少価値が高い歴史的な絵画作品、その他有名作家作品
和歌山市での強化買取中の絵画作家
東山魁夷
1908年、神奈川県横浜市に生まれた東山魁夷は、兵庫の高校に通っている間に画家になる目標をたて、現在の東京芸術大学の日本画科へ進学します。在学中の1929年の帝展に「山国の秋」を初めて出品し、初入選しました。1960年(52歳)には皇太子殿下の居所である東宮御所、1968年に落成した皇居宮殿の障壁画を担当し、話題となりました。
東山魁夷の作品は日本人の心情を反映させ、自然に対する感情を深く追求し、それを表現しています。画像構成は極めてシンプルとなりますが、幻想的な世界を創り上げています。
熊谷守一
熊谷守一は、1880年に機械紡績業と地主の家に生まれた日本画家です。12歳から、独学で水彩画を描き始め、プロの画家を目指しますが、親との約束で慶應義塾に1学期だけ真面目に通い、画家への道を許されます。1898年に、共立美術学館に入学すると1900年に東京美術学校に入学し様々な画技を学びます。
同期には青木繁や二科会・一水会創設者「山下新太郎」がいます。1909年に、第3回の文展で発表した「蝋燭」が入賞し、その後、大正に入り第2回二科展への出展を皮切りに、二科展が終わるまで毎年発表し続けます。様々な分野の発展おいて、多大なる功績を与えた者に授与される国の栄典の一つである文化勲章の打診があったが辞退しています。