東京都千代田区と絵画の歴史
東京都千代田区は、東京23区の中央に位置します。国会議事堂や首相官邸、最高裁判所など国の三権の中心地であり、大企業の本社が多く立地し日本の金融や経済の中核を担っています。千代田区の中心には、皇居があります。幕府が江戸に置かれ、17世紀以降大いに発展しました。明治時代以降も日本の首都としての役割を継いでいます。
1947年に千代田区が誕生しました。もとは麹町区と神田区に分かれていましたが、合併して新しい区になるときに江戸城が別名「千代田城」と称していたことから千代田の区名になりました。
千代田区にゆかりのある画家として「鏑木清方」を紹介します。鏑木清方は、明治から昭和時代にかけて活躍した浮世絵師で日本画家です。神田佐久間町に生まれました。挿絵画家から始まり、清らかで優美な女性の姿や、愛読した樋口一葉などの文学を題材とした作品を描きました。晩年は、庶民の生活をテーマにした作品を多く発表しました。千代田区内にある「東京国立近代美術館」には、鏑木清方の作品として『三遊亭円朝像』が所蔵されており、重要文化財に指定されています。東京国立近代美術館に所蔵されている作家・作品として、菱田春草『王昭君』『賢首菩薩』、岸田劉生『道路と土手と塀(切通之写生)』、川合玉堂『行く春』、横山大観『生々流転』、上村松園『母子』などがあり、いずれの作品も重要文化財に指定されています。さらに、東京国立近代美術館には、清宮質文、中西夏之、奈良美智、速水御舟、菱田春草、横山大観、村上隆などの作品が所蔵されています。
千代田区には「出光美術館」もあり、出光美術館は、出光興産の創業者である出光佐三のコレクションを展示するために開設されました。日本の書画、日本や中国の陶磁器など、東洋の古美術を多く所蔵しています。所蔵されている作家として「池大雅」があげられます。
池大雅は、江戸時代中頃に活躍した文人画家で書家です。中国南宋画(南画、文人画)を与謝蕪村とともに広めた人物として知られています。若い頃に各地を旅し、技術を高めつつ、琳派など日本の伝統画法や西洋画の技法を吸収することにも努めました。のちに、自由奔放で個性的な作風の完成に至りました。出光美術館には、重要文化財に指定されている『十二ヵ月離合山水図屏風』が所蔵されています。また、出光美術館には重要文化財として、俵屋宗達『西行物語絵巻』が所蔵されています。このほか、出光美術館に所蔵されている作家として、浦上玉堂、尾形光琳、酒井抱一、長谷川等伯などがあげられます。
千代田区内にある美術館としては、19世紀の西洋美術を中心に作品を所蔵している「三菱一号館美術館」、東京駅の赤レンガ駅舎内の美術館である「東京ステーションギャラリー」、相田みつをの作品を多く集めた「相田みつを美術館」、江戸時代から昭和時代にかけての伊勢型紙を展示している「紀尾井アートギャラリー・江戸の伊勢型紙美術館」、仏教美術を多く所蔵している「半蔵門ミュージアム」などがあります。
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【千代田区の絵画買取対象作品】
日本画、洋画、現代アート、リトグラフ、掛け軸、浮世絵、版画、仏画、山水画、花鳥画、木版画、屏風、書、襖絵、ガラス絵、板絵、エッチング、シルクスクリーン、色紙、短冊、古文書、和本、手紙、葉書、古書、地図、肉筆、古筆、画賛、版画、油絵、水彩画、中国絵画、中国掛け軸、朝鮮絵画、その他希少価値が高い歴史的な絵画作品、その他有名作家作品
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千代田区での強化買取中の絵画作家
平山郁夫
1930年、広島県瀬戸田町に生まれた日本画家です。1945年(15歳)のとき、原爆に被爆しその後遺症に苦しむ。そのころから仏教を題材にした作品をつくるようになります。東京美術学校の日本画科に入学したが、周りの技術や能力の高さに圧倒され、後にヨーロッパに短期留学し、教会のスケッチを毎日描いていました。主な作品はシルクロードを歩く人々やラクダを描いた作品や、仏塔や廟を描いた作品も多くあり、世界的に高い人気を博し、とりわけ中国政府からも高く評価されています。代表作「月明の砂漠」「アンコールワットの月」など
富岡鉄斎
法衣商(僧侶が身につける袈裟)を営む家庭に生まれます。明治・大正時代に活躍した文人画家。19歳頃に、小田海僊に南画を浮田一薫に大和絵を学んだ事が画家としてのスタートです。文久に入ると長崎にて、長崎南画家三筆の「祖門鉄翁」「三浦梧門」に師事し、長崎南画の技法を学んでいきます。文久2年に入り、ようやく画業のみで生計を立て始めます。維新には、画業を行いながら大和国石神神宮や和泉国大鳥神社で神宮も務めていました。明治時代には、北海道に出向きアイヌ文化にインスピレーションを受け後の代表作となる「旧蝦夷風俗図」を制作しています。