千葉県野田市と絵画の歴史
野田市は、千葉県の北西部にあります。三方を川に囲まれ、東側を利根川、西側を江戸川、南側には利根運河があります。利根川を挟んで対岸には茨城県坂東市などがあり、江戸川を挟んで埼玉県春日部市などと接しています。野田の地名の由来には諸説あり、「この地域を拠点にしていた武将が館を構えたことから」などあります。
平安時代中頃には「平将門の乱」が起こり、野田に船着場を設置したと伝えられています。現在でも野田市内には、平将門に関わる伝説が伝わる場所が多くあります。戦国時代には、北条氏の勢力が野田にも及びました。関宿城が築城されると、関宿周辺は城下町として発展しました。関宿は江戸時代になると、江戸防衛の拠点として重要視されました。船の関所が設けられ人々の往来を監視していました。また、周辺で採れた農作物を、水運を利用して江戸へ運ぶために、関宿は重要度が増していきました。江戸時代には、野田の醤油作りが本格的に開始しています。野田の醤油作りは、大正時代になると「野田醤油株式会社」が設立され、さらなる発展を遂げました。1950年(昭和25年)に野田市が誕生し、2003年(平成15年)に関宿町が編入合併して現在の市域が形成されます。近年は、東武野田線の沿線で宅地開発が進み、東京大都市圏のベッドタウンとして発展しています。
野田市にゆかりのある作家を紹介します。「後藤純男(ごとうすみお)」は、昭和から平成時代に活躍した日本画家です。関宿町(現在の野田市)で生まれた後藤は、埼玉県内の小・中学校で教職を務めたのち、四国地方などを巡り、寺院を巡るスケッチ旅行や北海道各地を、さらに中国へ足を伸ばしてスケッチの旅を続けました。東京藝術大学の教授に就いて指導に関わりながら、高野山東京別院、奈良県にある長谷寺、東京都にある高幡不動に襖絵を奉納しました。
「桜田精一(さくらだせいいち)」は、昭和から平成時代に活躍した洋画家です。熊本県で生まれた桜田は、野田市に居住しながら活動を続けました。光風会展で入選し、日展の審査員や評議員を務めるなど、美術界の発展に貢献しました。桜田精一が居住した自宅敷地内には、現在「鳩聚苑ギャラリー」があり、桜田精一自身の作品や収集したコレクションを展示しています。
野田市には、「茂木本家美術館(もぎほんけびじゅつかん)」があります。キッコーマン株式会社の創業家の一つである茂木本家が収集したコレクションが収蔵・展示されています。収蔵されている作家として「葛飾北斎」「歌川広重」などの浮世絵のほか、「横山大観」「梅原龍三郎」「片岡球子」などがあげられます。
絵画買取を専門とする我楽洞では、野田市において希少性の高い絵画作品をはじめ、著名画家が描いた作品を出張買取させて頂いております。その他、遺品整理や生前整理などでお手持ちのお品物を売却される際は、是非お声掛け下さいませ。絵画を専門に数十年に渡る鑑定実績をもつ、熟練の鑑定士が野田市のご自宅に出張査定させて頂きます。
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【野田市の絵画買取対象作品】
日本画、洋画、現代アート、リトグラフ、掛け軸、浮世絵、版画、仏画、山水画、花鳥画、木版画、屏風、書、襖絵、ガラス絵、板絵、エッチング、シルクスクリーン、色紙、短冊、古文書、和本、手紙、葉書、古書、地図、肉筆、古筆、画賛、版画、油絵、水彩画、中国絵画、中国掛け軸、朝鮮絵画、その他希少価値が高い歴史的な絵画作品、その他有名作家作品
野田市での強化買取中の絵画作家
中川一政
1893年に、警察官の家庭に長男として生まれる、晩年まで描き続けた洋画家です。
父親の仕事の都合で、芦屋に大正2年~大正3年半ばまで滞在し、この時期に学校や有名画家に師事する事もせず、自身の感性をもとに油絵を描き始めます。大正3年10月に、巽画会展に「酒倉」を出品し、その際の審査員の一人「岸田劉生」に高く評価され入選。その後も、同展をはじめ「二科展」「草士社展」「春陽会展」などへの出品をつづけ、受賞を重ねます。
代表作に「漁村凱風」「薔薇」「箱根駒ケ岳」があげられます。生涯を通して絵画(洋画・水墨画・版画)以外にも、陶芸、詩、和歌、書など様々な美術作品を世に残しております。芸術分野における長年の功績が認められ、1975年に、文化勲章・文化功労者を受賞。美術品の蒐集も行っており、遺したコレクションの中に世界的に有名な「ゴッホ」の油彩画が残されていました。
片岡球子
1905年(明治38年)北海道札幌市に生まれます。幼いころから絵を好んで描いており、また勉強にも熱をいれており、一時期医者を目指していたこともあります。横山大観、小林古径、前田青邨とも交流があり、火山や富士山に興味を示し、全国の山を題材にして作品を描きます。
「我楽洞」では、先代の社長(現会長)が球子先生のお弟子さんと知り合いで、その縁が元で親しくなり球子先生が100才の時に「我楽洞」の屋号(看板)を書いて頂きました。この看板は球子先生にとって最初で最後の物です。