奈良県奈良市と絵画の歴史
奈良県の県庁所在地である奈良市は、奈良県の北部に位置し、市の北側で京都府や三重県と接しています。奈良の地名の由来は、奈良盆地の北側にあり、ならしたような地形が広がっていること、など諸説あります。古墳時代には、有力な豪族が大きな墳墓を作るようになりました。710年には、飛鳥の藤原京から奈良へ都が移され、平城京が築かれました。その後、およそ70年間、平城京は日本の都として発展しました。そして、奈良時代の文化「天平文化」も花開きます。東大寺には盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立されました。都が京都に移った後、奈良は寺社町として発展します。江戸時代は幕府直轄領になり、酒、墨、刀、扇子などの生産が盛んになりました。1898年(明治31年)に奈良市が誕生し、周辺町村を編入合併して現在に至ります。古都の街並みが残る一方で、大阪大都市圏のベッドタウンの性格も合わせ持つようになっています。
奈良市にゆかりのある作家として「杉岡華邨(すぎおかかそん)」を紹介します。杉岡華邨は、昭和から平成時代にかけて活躍した書家です。奈良県で生まれた杉岡は、大阪教育大学などで書道の教育に携わりながら、禅美術についての学びを深めます。以後、日展などで作品を発表し、平安時代以来のかな書の美しさとその表現の可能性を追求し、かな書の第一人者になります。2000年(平成12年)には文化勲章を受章し、2001年(平成13年)には奈良市名誉市民に選ばれました。奈良市には「奈良市杉岡華邨書道美術館」があり、杉岡華邨の作品を多く収蔵しています。
奈良市には「奈良国立博物館」「奈良県立美術館」があります。奈良国立博物館は、仏教と関わりの深い古美術品や考古遺品などの文化財を収蔵・公開しています。毎年秋には「正倉院展」が開催され、奈良時代に多く作られた正倉院の宝物が公開されます。奈良国立博物館に収蔵されている美術品には「横山大観」の作品『瑞光図』『武蔵野図』も含まれています。
奈良県立博物館は、日本美術を中心に、奈良にゆかりの深い作家の作品を収蔵しています。収蔵されている作家として、「曾我蕭白」「竹久夢二」「池田遙邨」「須田剋太」「白髪一雄」「平山郁夫」「田中敦子」「葛飾北斎」「喜多川歌麿」「東洲斎写楽」「歌川広重」などがあげられます。
この他、奈良市には「松伯(しょうはく)美術館」「中野美術館」といった美術館もあります。
松伯美術館は、近畿日本鉄道名誉会長を務めた佐伯勇氏の旧邸にあり、「上村松園」の作品を多く所蔵しています。上村松園は、生涯の大半を京都で過ごしますが、太平洋戦争の末期には、現在の奈良市内に住んでいた長男の元に身を寄せていたこともありました。
中野美術館は、公益財団法人中野美術館が運営しています。実業家の中野皖司が収集したコレクションを展示しています。収蔵されている作家としては、「村上華岳」「富岡鉄斎」「横山大観」「萬鉄五郎」「岸田劉生」「熊谷守一」「藤田嗣治」「中川一政」「梅原龍三郎」「長谷川潔」「駒井哲郎」「浜口陽三」「清宮質文」などがあげられます。
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【奈良市の絵画買取対象作品】
日本画、洋画、現代アート、リトグラフ、掛け軸、浮世絵、版画、仏画、山水画、花鳥画、木版画、屏風、書、襖絵、ガラス絵、板絵、エッチング、シルクスクリーン、色紙、短冊、古文書、和本、手紙、葉書、古書、地図、肉筆、古筆、画賛、版画、油絵、水彩画、中国絵画、中国掛け軸、朝鮮絵画、その他希少価値が高い歴史的な絵画作品、その他有名作家作品
奈良市での強化買取中の絵画作家
棟方志功
1903年、青森県生まれの版画家です。小学校ときには同級生に凧絵を描き、絵に対する興味を高めていました。25歳のとき、第9回帝展に出品した「雑園」(油絵)が入選。その後、文化学院で美術の教師として勤務します。1936年(33歳)、国画展に出品の「大和し美し」が出世作となり、多くの美術家、文化人と知り合うことになります。
版画作品が最も有名ですが、油絵、倭画、書、詩歌など版画以外にも多くの傑作を残しています。棟方志功は、ゴッホの作品に衝撃を受けて「わだばゴッホになる」と本格的に画家を志したと言われています。代表作「観音経板画柵」「門世の柵」など
岸田劉生
岸田 劉生(きしだ りゅうせい)は有名実業家の岸田吟香(きしだぎんこう)の四男として、1981年生まれ、1908年の17歳のときに、洋画家の黒田清輝に師事し、実力を高めて文部省美術展覧会に入選されました。
フランス語で木炭の意味をもつ、ヒョウザン会を高村光太郎、萬鉄五郎、斎藤与里たちと結成したのが1912年岸田劉生21歳のときでした。26歳に結核を患いだしたころから、娘の岸田麗子の肖像を描くようになり、それがのちに岸田の代表作となります。胃潰瘍と尿毒症で38歳の若さで、山口県の徳山で死去しました。