鹿児島県鹿児島市と絵画の歴史
鹿児島市は、鹿児島県の中央に位置する鹿児島県の県庁所在地です。鹿児島湾を囲むように構成されており、火山で有名な桜島も鹿児島市に含まれています。鹿児島の地名の由来は、「昔は桜島のことを鹿児島と呼び、薩摩と大隈の2つの半島に囲まれていたことから」、「野生の鹿の子が多く生息していたから」、「火山を意味する言葉から」など諸説あります。
室町時代初め頃に、平安時代に築城された東福寺城に島津氏が入ります。1549年には、フランシスコ・ザビエルが上陸し、日本初のキリスト教伝来の地となりました。江戸時代になると、薩摩藩の支配下になり、鹿児島は城下町として発展します。江戸時代の後半から明治維新にかけて、薩摩藩は日本の政治において重要な地位を占めました。また、いち早く欧米の文明を取り入れ、反射炉や溶鉱炉が造られるなど、近代工業の発祥の地となりました。1889年(明治22年)に鹿児島市が誕生します。1914年(大正3年)に桜島で大きな噴火が発生し、桜島は大隅半島と地続きになりました。戦後は、観光や商工業が発展し、また周辺自治体との合併が進み、現在に至ります。
鹿児島市にゆかりのある作家として、「黒田清輝(くろだせいき)」「藤島武二(ふじしまたけじ)」「東郷青児(とうごうせいじ)」を紹介します。
黒田清輝は、明治から大正時代にかけて活躍した洋画家・政治家です。現在の鹿児島市で生まれた黒田は、17歳でフランスに留学します。当初は法律の勉強が目的でしたが、のちに画家になることを決意し、ラファエル・コランに師事しました。帰国後は、白馬会を発足させるとともに、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の教授に就任し、後進の育成に努めました。晩年は、貴族院議員を務めました。
藤島武二は、明治から昭和時代にかけて活躍した洋画家です。現在の鹿児島市で生まれた藤島は、当初は日本画を学びましたが、のちに洋画家に転向します。黒田清輝の勧めで東京美術学校の助教授に就任すると、長きにわたって後進の指導にあたりました。黒田清輝が発足させた白馬会にも参加し、作品の出品を続けました。1937年(昭和12年)に文化勲章を受章しました。
東郷青児は、大正から昭和時代にかけて活躍した洋画家です。鹿児島市で生まれた東郷は、フランスに留学しパブロ・ピカソの影響を受けます。帰国後は二科展に出品を続けました。女性像の作品で知られていますが、版画や彫刻も手掛けています。また、雑貨のデザインや本の装丁も多く担当しました。
黒田清輝、藤島武二、東郷青児の作品は、「鹿児島市立美術館」に収蔵されています。鹿児島市立美術館には、「クロード・モネ」、「ポール・セザンヌ」など海外の作家の作品も収蔵されています。
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【鹿児島市の絵画買取対象作品】
日本画、洋画、現代アート、リトグラフ、掛け軸、浮世絵、版画、仏画、山水画、花鳥画、木版画、屏風、書、襖絵、ガラス絵、板絵、エッチング、シルクスクリーン、色紙、短冊、古文書、和本、手紙、葉書、古書、地図、肉筆、古筆、画賛、版画、油絵、水彩画、中国絵画、中国掛け軸、朝鮮絵画、その他希少価値が高い歴史的な絵画作品、その他有名作家作品
鹿児島市での強化買取中の絵画作家
ロッカクアヤコ
1982年千葉県に生まれたロッカクアヤコは、指を筆に見立てたスタイルで、カラフルな色彩を持ち味とする女流画家です。ライブペインティングを主戦場とし、世界に活躍の場を広げています。モチーフである瞳の大きな少女と、ポップな色彩感覚が評価され、オークションランキングも急上昇中です。
2020年前には拠点をポルトガルに移し、欧州と日本を併用する形で展示会などの活動を続けています。2020年に千葉県立美術館で予定している個展「魔法の手ロッカクアヤコ作品展」は、自身初の国内公立美術館での開催とあって待ち望むファンも多いようです。
橋本関雪
1883年兵庫県神戸市に生まれます。大正および昭和期の京都画壇で異彩を放った日本画家・文人・作庭家です。儒学者だった父から漢学の手ほどきを受け、大陸文化に見られる動物画を中心に、巧みな写実で精神性のある画風を特徴としています。大正期にはその迫力のある描写から「馬の関雪」と呼ばれた一方、昭和期に入ると「猿の関雪」へと世のイメージを変えました。
1933(昭和8年)に発表した「玄猿」が、昭和天皇の直讃を受けて、文部省の買い上げになったことに起因しています。翌1934年に現在の人間国宝にあたる「帝室技芸員」に選出され、1935年には帝国美術院会員として任命されるなど、関雪は確固たる地位を築いていきました。