荻原守衛について
荻原守衛(おぎはら もりえ)は、明治時代に活躍した長野県出身の彫刻家で、荻原碌山(ろくざん)の名前で知られています。本名を守衛といい、碌山は号で、海外留学を経験して帰国後に荻原碌山と名乗り始めました。
長野県南安曇郡に5人兄弟の末っ子として生まれ、実業家の相馬愛蔵の妻、相馬黒光と出会ったことが守衛の人生の転機となります。明治32年に上京しますが、この時に相馬黒光の母校、明治女学校の巌本善治から許可を受けて敷地内に画室「深山軒」を建築しています。その後、不同舎に入塾して絵画を学び始めることになります。
明治34年に渡米、そこではアルバイトをしながら西洋画を学んで生活しました。デッサンを繰り返す日々が続く中で、荻原守衛は人物を描くことに夢中になっていたといわれています。骨格や筋肉の研究に明け暮れ、肉体を写し取ることに注力しましたが、この時はまだ描くべきものを見つけられずにいました。
彫刻家の道を選ぶことになったのは、明治37年にパリで見たオーギュスト・ロダンの考える人を見たことがきっかけといわれています。それから2年後にフランスに渡り、本格的に彫刻を学ぶことになります。更に1年後にはロダン本人と面会しており、刺激を受けて女の胴や坑夫といった作品の制作に打ち込みました。
帰国してからは新宿角筈にアトリエを造り、中村屋に通いつつ彫刻家として始動し始めます第二回文展で作品「文覚」が入選、第三回文展では「北条虎吉像」と「労働者」の二作品を出品して話題となります。明治42年に制作された彫刻作品「デスペア」はその名の通り、「絶望」する女性を表現した作品で、「文覚」、「女」とあわせて相馬黒光への思いが込めて制作された作品だといわれています。
守衛は、明治43年に「母と病める子」、「女」の二作品を制作し、30歳という若さで急逝しています。
略歴
1879年 | 長野県南安曇郡東穂高村の農家の5人兄弟の末っ子として生まれる |
1896年 | 相馬黒光と出会う |
1899年 | 画家を志し上京。小山正太郎に学ぶ |
1901年 | アメリカのニューヨークに渡米し西洋画を学ぶ |
1903年 | 渡仏 |
1904年 | オーギュスト・ロダンの「考える人」を見て彫刻を志す。帰米する |
1906年 | 再度渡仏。アカデミー・ジュリアンの彫刻部教室に入学 |
1907年 | ロダンに面会。「女の胴」「坑夫」などの彫刻を制作する |
1908年 | 帰国し新宿にアトリエを建築 |
1908年 | 第二回文展で「文覚」が入選 |
1909年 | 第三回文展に「北條虎吉像」「労働者」を出品する |
1910年 | 「母と病める子」「女」などを制作し、「女」が第四回文展にて文部省買上げとなる |
1910年 | 中村屋で突然喀血し急逝。享年30歳 |