並河靖之について
並河靖之(なみかわやすゆき)は、明治期に京都を中心に活躍した七宝家です。同じ七宝家の濤川惣助とともに「東京の濤川、京都の並河」と称され、帝室技芸員に任命された人物です。
武蔵国川越藩藩士高岡九郎右衛門の三男として京都の柳馬場に生まれた並河靖之は、、11歳のとき青蓮院宮侍臣「並河靖全」の養子となり並河の姓を名乗ることになります。
有線七宝にこだわり続けた並河靖之は、東京で七宝家として活躍していた濤川惣助とライバル関係でした。世間ではともに明治を代表する七宝家として両者を「二人のナミカワ」として評していました。
1873年、桐村茂三郎と七宝製作所を立ち上げ、同年、七宝食籠の第一号「鳳凰文食籠」を完成させます。この作品は、現在でも並河靖之七宝記念館に所蔵されています。
並河靖之が活躍した明治期は、日本も百姓が多く貧しい時代であり、七宝を購入できる経済状況の人も少なく、文化的価値や芸術性を評価できる人も多くはありませんでした。そのため、明治政府が奨励していた日本の伝統工芸品の欧米への輸出の流れに乗り、ヨーロッパなど海外向けに輸出し、西洋の博覧会にも出展するようになります。
中国の伝統や構図、モチーフからインスピレーションを得て完成させた七宝食籠は、花瓶や器、化粧箱など様々な美しい七宝に使われ輸出されました。並河は、1900年のパリ万国博覧会では「四季花鳥図花瓶」が金賞を受賞するなど海外で高く評価を得ていきます。
パリなどヨーロッパではジャポニズム文化が流行っていたこともあり、並河が開発した「黒色透明釉薬」にうかびあがる花の文様が美しい和洋折衷の美しさは特にヨーロッパの人の心を魅了しました。
国内では、1875年の第4回京都博覧会では有功銅賞を受賞、1877年の第1回内国勧業博覧会では鳳紋賞牌を受賞、1881年の第2回内国勧業博覧会では有功二等賞を受賞するなど、日本国内でも輝かしい成績を多数収めます。
略歴
1845年 | 川越藩家臣高岡九郎左衛門の三男として生まれる |
1855年 | 11歳のときに並河靖全の養子となり並河の姓を名乗る |
1858年 | 元服 |
1873年 | 七宝食籠の第一号「鳳凰文食籠」を完成 |
1874年 | 桃井英升より尾張七宝の技法の指導を受ける |
1875年 | 第4回京都博覧会に七宝花瓶を出品し有功銅賞を受賞 |
1876年 | フィラデルフィア万国博覧会に出品し銅賞を受賞 |
1877年 | 第1回内国勧業博覧会に出品した「鬼国窯舞楽図花瓶」が鳳紋賞牌を受賞 |
1881年 | 第2回内国勧業博覧会に出品した「銅器七宝花瓶」が有功二等賞を受賞 |
1889年 | 日本美術協会会員となる |
1893年 | 緑綬褒章を受章 |
1896年 | 帝室技芸員となる |
1900年 | パリ万国博覧会に出品した「四季花鳥図花瓶」が金賞を受賞 |
1927年 | 死去。享年83歳 |