中原悌二郎について
中原悌二郎(なかはら ていじろう)は、大正時代に活躍した日本を代表する彫刻家で、生まれは北海道の釧路市です。小売業などを営む中原家の次男として生まれますが、幼少期に旭川に移って叔父の養子になります。
中学時代は医師を目指していましたが、美術教師「林竹治郎」の影響で画家を目指すようになります。明治38年には札幌中学校を中退して画家になるために上京し、翌年には白馬会洋画研究所に入り、中村彝と親交を結びます。その後、中村彝と中原悌二郎は意気投合して、才能を磨きながら成長します。
明治40年、中原悌二郎が中村不折が指導する太平洋画界研究所に移籍すると、中村彝も後を追って同じ研究所に移ります。翌年、中村不折が荻原碌山を研究所に招いたことで中原悌二郎は碌山と出会い、碌山からロダンのブロンズ像などの作品の写真をみせてもらううちに彫刻に興味を持ち始め、高村光太郎にも出会ったことで彫刻や芸術に対する知識を深めていきます。荻原碌山が明治43年に30歳の若さで亡くなると、中原悌二郎は彫刻家に転身します。
悌二郎は、石膏と粘土だけで作品を制作できる彫刻の世界に入ると、明治43年秋の第四回文展で「老人の首」が初入選します。その後、ロダンの展覧会を見て感激した中原悌二郎は経済的な困窮状態が続く中でも努力を続けるのです。
大正8年、中村屋のアトリエで出会ったロシア人の青年をモデルにして制作した彫刻作品「若きカフカス人」は高い評価を受け名声を得た中原悌二郎は、平櫛田中像の制作に入ります。平櫛田中像の制作に集中しますが風邪を引いて中断し、喀血の影響もあり研究所を休む日が多くなります。平櫛田中像の制作途中、体調が悪化した中原悌二郎は、大正10年3月28日に30代の若さで世を去ります。亡くなった後も中原悌二郎の作品は高く評価され、晩年の芥川龍之介は「若きカフカス人」を見て絶賛しています。
略歴
1888年 | 北海道釧路市に中原家の次男として生まれる |
1897年 | 母とともに旭川市に移り、叔父 茂助の養子となる |
1902年 | 忠別尋常高等小学校高等科を卒業 |
1902年 | 北海道庁立札幌中学校に入学するが第三学年で落第 |
1905年 | 札幌中学校を中退して上京 |
1906年 | 白馬会洋画研究所に入る |
1907年 | 中村不折が指導する太平洋画会研究所に移籍 |
1908年 | 荻原碌山と出会う |
1910年 | 第4回文展で「老人の首」が初入選 |
1912年 | ロダンに深く啓発される |
1916年 | 日本美術院の研究会員に転じる |
1916年 | 第3回院展で「石井氏像」で樗牛賞を受賞 |
1919年 | 「若きカフカス人」を制作 |
1919年 | 「平櫛田中像」を制作。遺作となる |
1921年 | 死去。享年32歳 |