北村西望について
北村西望(きたむら せいぼう)は、1884年に長崎県で生まれた彫刻家です。長崎平和公園の巨大像「長崎平和祈念像」、国会議事堂の「板垣退助翁」などを制作し、戦前から戦後に掛けて活躍した彫刻家として知られています。
学生時代は長崎師範学校に進学したものの病気で中退、その後は京都市立美術工芸学校彫刻科に入学して首席で卒業しました。卒業後は東京美術学校彫刻科に進み、在学中に第2回文展に作品「奮闘」を出品し初入選を果たします。
初入選のあとは、1909年には第3回文展に出品した「雄風」が褒状、1911年の第5回文展に出品した「壮者」でも褒状を受賞しています。戦前は、第9回文展に出品した「怒濤」で二等賞、第10回文展に出品した「晩鐘」で特選、第11回文展に出品した「光にうたれた悪魔」が無鑑査となりました。
このように北村西望は文展の常連で、1917年に東京に居を構えてからは、1919年の第1回帝展以降の審査員を務めるようになります。
1921年には母校の東京美術学校教授に就任し、東邦彫塑院の顧問なども務めています。
一方、戦後は平和や自由、宗教といったモチーフの作品作りに注力するようになり、日展に出展するようになりました。戦前の作品は戦意高揚などを目的とした男性像が中心でしたが、戦後は一転して作品の傾向が変わっています。
晩年は、都立井の頭公園にアトリエを造り、後に都に350点余りの作品と共にアトリエを寄贈しました。これらの功績により名誉都民や文化勲章、文化功労者の顕彰などを受けています。
略歴
1884年 | 長崎県南高来郡に北村家の四男として生まれる |
1903年 | 京都市立美術工芸学校彫刻科に入学 |
1907年 | 京都市立美術工芸学校彫刻科を首席で卒業し、東京美術学校彫刻科に入学 |
1908年 | 第2回文展で「奮闘」が初入選 |
1909年 | 第3回文展で「雄風」が褒状を受賞 |
1911年 | 第5回文展で「壮者」が褒状を受賞 |
1912年 | 東京美術学校彫刻科を首席で卒業 |
1915年 | 第9回文展で初期の代表作「怒涛」が二等賞 |
1916年 | 第10回文展で「晩鐘」が特選を受賞 |
1917年 | 東京市滝野川区(現・東京都北区)に住居を構える |
1919年 | 第1回帝展以降、審査員を務める |
1919年 | 曠原社を結成 |
1921年 | 母校の東京美術学校教授に就任 |
1922年 | 西ケ原彫刻研究所を開設 |
1925年 | 帝国美術院会員となる |
1933年 | 東邦彫塑院顧問を務める |
1947年 | 日本芸術院会員となる |
1949年 | 日展理事となる |
1953年 | 東京都武蔵野市に転居。井の頭公園内に自身のアトリエを建立 |
1955年 | 代表作「長崎平和祈念像」が完成する |
1958年 | 日本芸術院選考委員となる |
1958年 | 文化勲章受章 |
1962年 | 日本彫塑会名誉会長となる |
1969年 | 日展会長に就任 |
1974年 | 日展名誉会長となる |
1987年 | 心不全のため自宅で死去。享年104歳 |