吉田博について
吉田博(よしだ ひろし)は、明治・大正・昭和の時代に活躍した版画、洋画家です。風景画の第一人者として有名な画家です。
福岡県久留米市に生まれた吉田博は、美術教師であった洋画家の吉田嘉三郎に見込まれ、15歳で吉田家の養子になり、20歳の頃、京都に行き洋画家の田村宗立に師事し、若き日から洋画の道を歩みます。
23歳で絵画修行のため洋画家・中川八郎とともに渡米した吉田博は、デトロイト美術館、ボストン美術館で展覧会を開催して成功を収めます。その後渡欧し、パリ万博で日本現代画家作品展示『高山流水』が褒状を受賞するなどの活躍をみせます。
洋画家としての素養を持つ吉田博が、木版画の制作は、画業後半の40歳以降に始めます。きっかけになったのは、当時「新版画」の版元をしていた渡辺庄三郎との出会いだったと言われています。最初の本格的木版画「牧場の午後」は、渡辺庄三郎が経営していた渡邊版画店から1921年に出版されました。
しかし、1923年の関東大震災により版木や作品の多くが失われてしまいます。その後、数少ない木版画作品を持って渡米を果たすと現地で高い評価を得ます。また、海外で高額に流通している浮世絵版画が粗悪品ともいえる作品であり、それを目にした吉田博は、その後版画作品により力を入れるようになります。
吉田博の作風は、自然風景を描いたものが多く、その中でも特に「山の画家」と呼ばれるほど山を描いた作品が多く見られます。また市井の人たちの生活を描いた作品もあります。
吉田博の作品は、ダイアナ妃や心理学者のフロイトなど、海外の著名人にも人気です。第1回新文展に出品した「利尻姫沼」は、李王家が買い上げます。
略歴
1876年 | 福岡県久留米市に生まれる |
1888年 | 福岡県立修猷館に入学 |
1891年 | 修猷館の図画教師であった洋画家・吉田嘉三郎に画才を見込まれ、吉田家の養子となる |
1893年 | 修猷館を卒業後、京都へ行き洋画家・田村宗立・に師事 |
1894年 | 上京し、小山正太郎が主催する不同舎に入門し、明治美術会の会員となる |
1898年 | 明治美術会10周年記念展に、「雲叡深秋」、「雲」などを出品 |
1899年 | 22歳で中川八郎と共にデトロイト美術館で最初のアメリカ展「日本画家水彩画展」を開催 |
1900年 | ボストン美術館で2人展を開催し成功し、その後渡欧し、パリ万博において日本現代画家作品展示「高山流水」が褒状を受賞 |
1902年 | 解散した明治美術会を引き継ぎ、満谷国四郎、石川寅治、中川八郎らと太平洋画会を結成 |
1902年 | 第1回太平洋画会展を開催し、「榛名湖」などを出品 |
1903年 | 再度渡米し、ボストンを拠点に展覧会を開催 |
1904年 | セントルイス万博に、「雨後の桜」、「昨夜の雨」など3点を出品し、銅賞碑を受賞 |
1906年 | 帰国 |
1907年 | 東京府勧業博覧会で「紐育ブルックリンの夕景」が2等賞を受賞 |
1907年 | 第1回文部省美術展覧会(文展)で「新月」が3等賞受賞、文部省買い上げとなる |
1908年 | 第2回文展で「雨後の夕」が2等賞(最高賞)を受賞 |
1909年 | 第3回文展で「千古の雪」が2等賞(最高賞)を連続受賞 |
1910年 | 第4回文展の審査員に任命される |
1920年 | 新版画の版元の渡辺庄三郎に出会い、渡辺版画店から木版画の出版を開始する |
1921年 | 最初の本格的木版画「牧場の午後」を出版 |
1923年 | 関東大震災により木版画と版木を全て焼失し、三度目の渡米 |
1925年 | 欧州歴訪の後に帰国し、新宿区下落合に吉田版画スタジオを創設 |
1936年 | 日本山岳画協会を結成 |
1937年 | 第1回文部省美術展覧会(新文展)に「利尻姫沼」を出品し、李王家買上げとなる |
1938年 | 従軍画家として中国に派遣 |
1947年 | 太平洋画会会長に就任し、第3回日本美術展覧会(日展)の審査員をつとめ、「初秋」を出品 |
1950年 | 下落合の自宅で老衰のため死去。享年73歳 |