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2023年8月18日 茶道具

千利休の7人の弟子「利休七哲」とは?

利休七哲とは?

利休七哲(利休七哲)とは、千利休(せんのりきゅう、1522年-1591年)の弟子の中でも、特に優れた7人の弟子のことを指します。

利休七哲千利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人であり茶人です。現在まで伝わる茶道(侘び茶)を大成させたことで知られます。武野紹鴎(たけのじょうおう)に茶の湯を習ったとされ、織田信長や豊臣秀吉に茶堂(ちゃどう:茶の湯で主君に仕える人)として親交を深めたことで知られます。

利休七哲は、千利休に茶の湯を習った弟子たちの中でも、茶の湯に対する造詣が深い戦国武将が選ばれています。利休七哲は、表千家4代家元江岑宗左(こうしんそうさ)が著した『江岑夏書』に記されています。千宗旦(千利休の孫で生前の利休を知る一人)から聞いた内容をまとめています。

利休七哲に入る人物とは、蒲生氏郷(がもううじさと)、細川忠興(ほそかわただおき)、古田重然(織部)(ふるたしげなり、ふるたおりべ)、牧村利貞(兵部)(まきむらとしさだ、まきむらひょうぶ)、高山右近(重友)(たかやまうこん、たかやましげとも)、芝山宗綱(監物)(しばやまむねつな、しばやまけんもつ)、瀬田正忠(掃部)(せたまさただ、せたかもん)の7人です。前田利長(まえだとしなが)は一時期、利休七哲の一人にもあげられていましたが、瀬田掃部に入替えられています。

茶の湯が、商人だけでなく戦国武将の間でも楽しまれていたことから、千利休の影響力の大きさが感じられます。

蒲生氏郷

蒲生氏郷(がもううじさと(1556年-1595年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で茶人です。陸奥国会津で92万石の大名にもなりました。

蒲生家は、平安時代の貴族で平将門の乱で活躍した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)からつながる家柄とする説がありますが、詳細は不明です。氏郷は近江国で生まれ、織田信長に仕えたのち信長の次女(院号は相応院、実名は不明)と結婚します。その後、豊臣秀吉に仕え、全国統一に向けて活躍を見せました。一連の活躍が認められ、陸奥国会津で92万石の大名になり、城下町・若松の開発を進めました。晩年は体調がすぐれず、京都・伏見で亡くなりました。

茶人としての氏郷は、千利休の影響を強く受けています。千利休からは武将としても茶人としもすぐれた人と評されています。千利休が切腹になった際は、利休の子・千小庵を一時保護しました。豊臣秀吉が千家の再興を許した際に、徳川家康と氏郷が連名で千小庵に宛てた書状『少庵召出状』(秀吉が「小庵は京都に戻るように」と言っていた、と伝えた書状)は、現在表千家に秘蔵され、新年最初の初釜の際に掛物として披露されています。また、利休から渡されたという茶碗「赤楽早船」や、自作の茶杓が氏郷ゆかりの茶道具として知られています。

細川忠興

細川忠興(三斎)(ほそかわただおき、ほそかわさんさい(1563年-1646年))は、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将で茶人です。現在まで続く細川家の基礎を築いたことで知られます。

細川家は、室町時代に将軍を務めた足利氏につながる家系です。忠興は元服したのち、織田信長に仕えました。信長の仲介で、本能寺の変で織田信長によって討たれた明智光秀の三女・玉子(ガラシャ)と結婚します。豊臣秀吉に仕えたときは、全国統一に向けて、九州や小田原征伐に参加しました。関ヶ原の戦いでは東軍に参加し、戦の後は豊前国中津藩の大名になりました。なお、関ヶ原の戦いで、ガラシャを亡くします。大阪の陣(1614年-15年)に参戦したのちは出家し、三斎を名乗りました。のちに細川家は、肥後国熊本藩の領主となり幕末まで続きました。

忠興(三斎)は、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人でもありました。茶道にも精通し、茶道に関することは『細川三斎茶書』にまとめられています。千利休の茶の湯を忠実に守ることを大切にし、細川家の領地となった熊本で召し抱えた茶道役に対しては、利休の茶の湯を全く変えることのないように命じたとされます。そして、忠興によって新しい茶の湯の流派「三斎流」「肥後古流」が誕生して、現在まで存続しています。

古田織部(重然)

古田織部(重然)(ふるたおりべ、ふるたしげなり(1543年-1611年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で茶人です。茶道の流派の一つである織部流の開祖としても知られます。

古田家は、織田信長の家臣として仕えた家柄です。信長の死後は、豊臣氏に仕え、四国や九州の平定、小田原征伐、朝鮮出兵にも参加しています。晩年は茶の湯の道を進み、千利休が亡くなった後「天下一」とも称されました。大阪の陣(1614年-1615年)では、豊臣氏に内通していた疑いで捕えられ、切腹を命じられて最期を迎えました。

茶人としての織部は、千利休の創意工夫あふれる精神を受け継ぎ、織部流(おりべりゅう)の茶道を確立させました。豊臣秀吉、徳川家康などの武将や、朝廷・貴族、寺社、経済界と茶の湯を通じて関係を深めます。また、茶の湯において、「織部好み」ともいわれる茶道具などで独自の世界観を確立させるとともに、武家における茶の湯の様式を成立させるなど、時代に合わせた工夫を進めました。その一方で、千利休を深く尊敬し、千利休が切腹前に開いた最後の茶会で使った茶杓(ちゃしゃく)を織部に託し、織部は位牌代わりにしたとされます。この茶杓は『泪(なみだ)』という名前で、名古屋市にある徳川美術館に所蔵されています。

織部流は、織部亡き後に幕府や諸大名などに伝わりました。平成時代には、これまで続いてきた所作などを、古田織部が確立させた頃のものに修正しました。現在、織部流は「織部流音知会」と派生した「式正織部流」「織部流扶桑派」の3つが並立しています。このうち織部流音知会には京都市に稽古場「太閤山荘」や関連施設「古田織部美術館」があります。織部流の特徴としては、「道具を畳に直接置かない」「呑み回しをしない」「茶会の前には手ぬぐいなどで手を清めて清潔を重視する」などがあげられます。

牧村利貞

牧村(兵部)利貞(まきむら(ひょうぶ)としさだ(1546年-1593年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で茶人です。

春日局の伯父にあたり養父でもある稲葉重通(いなばしげみち)の子として生まれました。今の岐阜県を拠点にして、織田信長や豊臣秀吉に仕えました。馬に乗って秀吉に付き添って護衛や伝令などの任務を果たしました。小牧・長久手の戦いや四国・九州平定にも参加しました。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、船奉行として朝鮮にわたり戦いに参加しましたが、朝鮮の地で亡くなりました。また、利貞は高山右近(たかやまうこん)の勧めで、キリスト教の洗礼を受けました。そして、利貞と同じ利休七哲に称される蒲生氏郷(がもううじさと)をキリスト教に改宗させました。

茶人としての利貞は、「ゆがみ茶碗」を茶席の場に初めて持ち込んだことで知られます。それまでの茶席で使われた茶碗といえば、形の整ったものが使われていましたが、利貞は形の歪んだ茶碗を茶席に用いました。これをきっかけにして、茶の湯の世界に「ゆがみ」「ひずみ」という新たな美意識がもたらされました。

高山右近

高山右近(重友)(たかやまうこん、たかやましげとも(1552年?-1615年)は、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将で茶人です。キリスト教の洗礼を受けたキリシタン大名の一人として知られます。

高山氏は、現在の大阪府北部を拠点にしていました。1552年ごろに右近は生まれたと推定されています。10歳でキリスト教の洗礼を受けます。織田信長に仕えるようになるまでの間、多くの武将に使えました。信長の死後豊臣秀吉に仕えますが、バテレン追放令(1587年)が施行されると、右近は領地や財産を捨て信仰を守ることを選び、加賀前田家の庇護を受けます。江戸時代になるとキリスト教への弾圧が厳しくなり、右近はフィリピンのマニラへ送られてしまいました。しかし、異国での生活は長続きせず、マニラ到着からわずか40日後に生涯を閉じることになりました。近年、右近を顕彰する動きがあり、2017年(平成29年)に、福者の称号を与える列福式がローマ教皇の代理も出席して行われました。

茶人としての右近は、茶の湯に真摯に向き合っていたようです。千利休の子・千少庵の茶会の時の様子について、少庵の子・千宗旦は、右近がとても緊張しているように感じた、と伝えています。また、バテレン追放令が出された際に、利休は右近のもとに向かい棄教(キリスト教を捨てること)を促しましたが、右近は師匠の説得にも関わらず棄教を断りました。右近のキリスト教に対する強い思いを感じ、利休はそれ以上の説得はしなかったようです。

芝山宗綱

芝山宗綱(監物)(しばやまむねつな、しばやまけんもつ(生没年不明))は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で茶人です。

生没年や出自は不明ですが、平安時代中期の役人を祖先とする説もあります。織田信長や豊臣秀吉に仕え、馬に乗って秀吉に付き添って護衛や伝令などの任務を果たしました。小田原征伐にも参加しました。

茶人としての宗綱は、利休七哲の中でも特に優れた茶人である「利休門三人衆」の一人に数えられています。現在まで残されている利休の書簡の中で宗綱宛のものが最も多いことや、利休最期の書簡も宗綱宛てであることから、利休との深い関係がうかがえます。また、手水鉢(ちょうずばち)や緞子(どんす)など「芝山」の名を残した茶道具が多くあることから、当時の茶人の中では、かなりの腕前を持っていたことが想像されます。

瀬田正忠

瀬田正忠(掃部)(せたまさただ、せたかもん(1548年?-1595年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で茶人です。豊臣秀吉や秀次に仕えていました。

詳細な出自は不明ですが、高山右近(たかやまうこん)の推薦で豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いや九州平定、小田原征伐などに従軍しました。その後、豊臣秀吉のおいに当たる豊臣秀次(とよとみひでつぐ)と親交を深めます。一時、豊臣秀次は秀吉の後継者として関白の地位にも就きますが、秀吉に子どもが生まれると、秀次は強制的に出家させられ、切腹を命じられました。瀬田正忠は、秀次と関係が深かったことを理由に処刑されました。

茶人としての瀬田正忠は、茶杓削りの名手として知られています。お皿のように浅い高麗茶碗水と茶巾を入れ、客の前で茶巾を軽く絞ることで、水が滴るのを見たり音を聞いたりすることで涼を感じてもらう「さらし茶巾」という点前を考案したとされています。また、茶をすくう部分を大きくした独創的な茶杓を愛用したことでも知られます。

前田利長(旧:利休七哲)

前田利長(まえだとしなが(1562年-1614年)は、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した武将で茶人です。加賀藩の初代藩主で、江戸時代初期に加賀藩の礎を築いたことで知られます。

利長の父は前田利家(まえだとしいえ)で、加賀前田家の祖です。利家は豊臣秀吉の五大老の一人として徳川家康に対抗できる存在でした。利家の後を継いだ利長は、政治的判断で徳川氏に従うことを決めます。関ヶ原の戦いの後、石高110万石を有する加賀藩が成立し、利長は日本最大の規模を誇る藩主になります。その後、キリシタン大名だった高山右近(たかやまうこん)を一時庇護します。晩年は、前田利常(まえだとしつね)の後見人として藩政を指揮しました。

茶人としての利長は、父親の利家とともに千利休から茶の湯を学んでいます。さらに、千家4代目で裏千家の創始者である仙叟宗室(せんそうそうしつ)は前田家に仕えました。さらに、小堀遠州(こぼりえんしゅう)などの茶人との交流を通して、利長をはじめとする前田家は金沢を中心に独自の茶道文化を形成しました。武士だけでなく町人も茶の湯を楽しみ、茶の湯を通して美意識が生活の中に取り入れられるようになりました。そのため、金沢には全国から優れた茶道具が集まりました。また、利長は一時期、利休七哲(りきゅうしちてつ)の一人にもあげられていました。