松永耳庵について
松永耳庵(まつなが じあん)は、三井財閥の日本の電力業界で活躍し、「電力王」「電力の鬼」と称された実業家であり、美術品の収集家、茶人としても名を馳せた人物です。「耳庵」は号で、本名は松永安左エ門(まつなが やすざえもん)といいます。また、益田鈍翁、原三溪とともに「近代三大茶人」のひとりとしても知られています。
安左エ門(耳庵)は、福澤諭吉を心から敬愛しており、『学問のすすめ』を読んで彼のもとで教えを受けたいと思うようになります。
1889年に東京へ出て慶應義塾に入学し福澤諭吉の門下生になりますが、1893年に父が急死により帰郷し家督を相続しますが、21歳で再び慶應義塾に戻ります。その後、福澤諭吉の朝の散歩にお供するようになり、その後事業を共にする福澤桃介と出会います。
松永安左エ門(耳庵)といえば、電気業界の再編だけでなく、戦後のインフラ構築の功労者に挙げられることが少なくありません。
茶の湯の世界に入ったのは還暦のころであり、「耳庵」の名は論語の「六十而耳従」にちなんでつけられたと言われています。耳庵は短い期間で茶の湯の精神を学ぶとともに、美術品も多く収集します。耳庵は、美術品の収集家としても有名であり、松永耳庵のコレクションの中でも、「釈迦金棺出現図」は特に有名です。「釈迦金棺出現図」は平安時代の仏画の頂点ともいえる作品で、まさしく国宝にふさわしい一品です。現在は京都にある国立博物館で保管されてます。
なお、松永安左エ門(耳庵)の人間性を表すエピソードとしては、勲一等瑞宝章の授与が有名です。最高の名誉を得られることになったのですが、安左エ門(耳庵)はそれを聞いて激高します。人の価値を人が決定することなど、あってはならないという理念を持っていたからだと言われています。最終的には説得されて不本意ながら受けることになりますが、最初に断固拒否したことは多くの人に衝撃をもたらしました。
略歴
1875年 | 長崎県壱岐に二代目安左エ門の長男として生まれる |
1889年 | 東京へ出て慶應義塾に入学 |
1893年 | 父の死で帰郷、家督を相続し、三代目安左エ門を襲名する |
1895年 | 21歳で再び慶應義塾に戻る |
1898年 | 慶應義塾大学中退し、日本銀行に入行するが1年で辞職 |
1909年 | 福沢桃介と共に福博電気軌道を設立 |
1917年 | 第13回衆議院議員総選挙に当選 |
1922年 | 関西電気と合併して、東邦電力を設立し副社長になる |
1928年 | 東邦電力の社長に就任 |
1942年 | 東邦電力解散を期に引退 |
1946年 | 小田原市板橋(「掃雲台」近く)に「松下亭」(後に「老欅荘」)を建設し移り住む |
1951年 | 民間初のシンクタンク「電力中央研究所」を設立し、理事長に就任 |
1959年 | 財団法人松永記念館を設立する |
1964年 | 勲一等瑞宝章を受けるが勲章授与式は欠席する |
1971年 | 肺真菌症の為に逝去。享年95歳 |