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取扱作家

原三渓(はら さんけい)

1868年-1939年

買取できる品目

原三渓について

原三渓(はら さんけい)は1868年10月8日岐阜で生まれました。日本の実業家・美術品収集家です。本名は富太郎、号は三渓で、近代三大茶人(鈍翁・三渓・耳庵)の1人です。

家は庄屋で青木家の長男として誕生しましたが、1885年東京専門学校(現・早稲田大学)に入学したのち、跡見学校の助教師になりました。教え子の原善三郎の孫娘と結婚して原家に入籍して原家の家業を継ぎ、実業家として成功しました。

25歳頃から美術品のコレクションを始め、明治末期に国宝の仏画「孔雀明王像」を、所有者の井上馨から「1万円(現在の3000万から5000万円に相当)で譲る」と言われて、コレクションの一部を手放して購入しています。

1902年頃から横浜市の本牧に作った三渓園は、日本庭園でも有名ですが、由緒ある古建築が移築され、貴重な10棟もの国の重要文化財があります。三渓記念館には、原三渓に関する資料や自筆書画、美術工芸品など展示されています。

1917年に茶室・蓮華院を建設します。蓮華院の名前は、三渓が床の間に奈良東大寺三月堂の観音が持っていた蓮華を飾ったことが由来になっています。三渓は茶会を多く開催していましたが、三渓が69歳の時に、長男の善一郎を恒例になっていた茶会直前に亡くしてしまいます。しかし茶会は中止せずに、初七日が過ぎてから浄土飯の茶会が催されました。それは蓮の葉にご飯を盛って紅蓮の花びらで覆ったもので、花びらの中にあるご飯をお椀に移し、かけ汁で食べるという、美食家の三渓らしいものでした。

三渓は、芸術家を支援しただけでなく、三渓園のように、一般市民にも日本文化を親しんでもらいたいという考えも持っていた人物でした。

略歴

1868年 美濃国(現・岐阜県岐阜市)に青木久衛の長男として生まれる
1885年 上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学
1888年 跡見女学校の助教師を務める
1891年 横浜屈指の財閥 原善次郎の娘・屋寿(やす)と結婚して原家に入る
1906年 三溪園を公開
1915年 帝国蚕糸の社長に就任
1917年 益田鈍翁、高橋箒庵らを招き、蓮華院にて茶会を開く
1920年 横浜興信銀行(現・横浜銀行)の頭取となる
1923年 横浜市復興会長に就任
1930年 自筆の書画数百点を編集
1937年 長男の善一郎が45歳の若さで急死
1939年 逝去。享年70歳

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