荒川豊蔵(あらかわ とよぞう)は、昭和を代表する美濃焼の陶芸家です。
豊蔵は、岐阜県土岐郡多治見町(現在の多治見市)に生まれました。豊蔵の母方は、多治見市高田で製陶業を営む陶祖・加藤与左衛門景一の直系であったため、豊藏は美濃焼の陶工の血筋を受け継いで生まれました。
25歳の時、鈴木勲太郎と出会い、特殊絵の具で手描きの上絵付き高級コーヒー茶碗をプロデュースし、京都の錦光山宗兵衛に買い取られました。この縁をきっかけに、独立して上絵磁器製作の事業を起こしますが失敗してしまいます。
しかしその後、錦光山の顧問をしていた宮永東山と出会い、京都の東山窯の工場長を任されます。京都では、様々な焼き物の作品に触れる機会に恵まれました。
1925年31歳の時、東山窯に訪れた際に北大路魯山人と出会い親交を深めていきます。その後、魯山人の星岡窯を手伝うため鎌倉へ移ります。
39歳の時、星岡窯をやめて多治見の大萱古窯跡近くに穴窯(大萱窯)を作り、志野、瀬戸黒、黄瀬戸、唐津を作陶します。
1946年に、多治見市にある虎渓山永保寺所有の山を借り受け水月窯を作ります。
1955年には、志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定されます。
荒川豊蔵は、桃山時代の志野に陶芸の原点を求めました。古志野の再現を目指し作陶を重ねていき、荒川志野と呼ばれる独自の境地を確立した人物です。
略歴
1894年 | 岐阜県土岐郡多治見町(現在の多治見市)に生まれる。 |
1906年 | 多治見尋常高等小学校高等科卒業。 |
1907年 | 陶磁器貿易商木塚商店で働く。 |
1919年 | 手描きの上絵付き高級コーヒー茶碗をプロデュース。 |
1922年 | 上絵磁器の事業に失敗。京都・東山窯の工場長となる。 |
1925年 | 東山窯で、北大路魯山人と出会う。 |
1927年 | 北大路魯山人が築いた星岡窯を手伝うため鎌倉へ。 |
1933年 | 星岡窯をやめて、多治見の大萱古窯跡近くに穴窯を作る。 |
1941年 | 大阪梅田の阪急百貨店で初の個展を開催。 |
1946年 | 多治見市の虎渓山永保寺所有の山に水月窯を作る。 |
1955年 | 志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者に認定される。 |
1971年 | 文化勲章を受章。 |
1984年 | 大萱窯の地に豊藏資料館を開館。 |
1985年 | 逝去。享年91歳。 |
荒川豊蔵の買取実績