茶道具と神奈川県横浜市の歴史
横浜市は、神奈川県の東部に位置します。神奈川県の県庁所在地であるとともに政令指定都市で、市内には18の区があります。東京大都市圏に含まれ、人口は370万人を超え、全国の市町村で最大の人口を有します。日本有数の港湾都市で、商工業も発達しています。全国的に「港町」としてのイメージが強い横浜市ですが、市の東側が東京湾に面している他は、丘陵地帯が広がっています。横浜の地名の由来は、「横に長く伸びた砂州があったことから」など諸説あります。室町時代の文献に「横浜村」の記録が残されています。
横浜の開発は、鎌倉に幕府が置かれた鎌倉時代から始まります。称名寺(金沢区)が建立され、武家の文庫としては日本最古である金沢文庫(かねさわぶんこ)も開設されました。江戸時代になると、市内を五街道の一つである東海道が通り、鶴見や保土ヶ谷、戸塚などに宿場が設けられました。また、吉田新田など新田開発が進みました。江戸時代末期には、アメリカからマシュー・ペリーが来航し、日米和親条約などの条約締結の舞台になりました。幕末から明治時代以降、横浜は開港とともに急速に発展し、海外貿易の一大拠点となりました。1889年(明治22年)に横浜市が誕生します。太平洋戦争が終わった後、横浜市内中心部は、アメリカなどの連合国軍に接収されました。1956年(昭和31年)に政令指定都市になると、これ以降東京大都市圏のベッドタウンとしてさらなる発展を見せ、現在に至ります。
中区には、国の指定名勝である「三溪園」があります。生糸貿易で材を成した実業家で茶人でもある原三渓(はらさんけい)によって1906年(明治39年)に公開されました。園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置され、国の重要文化財や市の指定有形文化財に指定されている茶室もあります。「春草廬 (しゅんそうろ)」は桃山時代から江戸時代初期の頃の茶室で、織田信長の弟・織田有楽の作とされ、宇治市の三室戸寺金蔵院から移築されました。この他、林洞庵(りんどうあん)や蓮華院(れんげいん)などの茶室も園内にあります。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
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横浜市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
横浜市での強化買取中の茶道具作家
永樂善五郎
永樂善五郎(えいらく ぜんごろう)は、約500年続く京焼の名家であり、土風炉・焼物師の家元です。始まりは室町時代で、創設者「西村宗禅」が土風炉の依頼を受けたことからでした。現在の当代は十七代で、国内外で個展を開催し、新たなスタイルを追求しています。
永樂家は多くの名工を輩出し、京焼の名声を高めてきました。特に十代了全は「天明の大火」による損失から「永樂」印を用いるようになり、この時期より千家十職として認められたといわれています。
今井宗久
今井宗久(いまい そうきゅう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の商人・茶人であり、茶湯の天下三宗匠の一人として知られています。宗久は茶の師でもある武野紹鴎宅に身を寄せて茶の湯を学びます。独立後は、戦国大名に鉄砲や茶器を売り、財を成します。
1568年、織田信長が上洛すると、宗久は古田織部の名品である織部焼や「松島の茶壺」「紹鷗茄子」などを信長に献上し、その信頼を得ました。しかし、信長から羽柴秀吉の時代になると茶の湯は千利休が牽引するようになり、静かに主役の座を譲ります。
1593年に73歳で亡くなりましたが、宗久のゆかりの茶室「黄梅庵」は、現在でもその歴史的価値は高く、多くの観光客が訪れています。