米原雲海について
米原雲海(よねはら うんかい)は明治大正期に活躍した彫刻家の一人です。島根県出身で、本名を「木山幸太郎」と言いますが、生まれた後に米原家の養子となりこの名前がついています。米原雲海は、写実を元にしたオリジナルのデフォルメを加えて、木彫り人物像を得意とした彫刻家です。
小学校卒業後には、宮大工に弟子入りし建築彫刻を学んで大工となりましたが、その後京都や奈良の古仏に感銘を受けて西洋彫刻家を目指すようになります。1890年には高村光雲に指示するようになり、1894年から雲海という名前で活動しています。1895年からは東京美術学校で仕事をはじめ、ここでは30年まで勤務を続けました。
その後1897年には「ジェンナー像」を制作します。このジェンナー像の特徴は、比例コンパスを使った技術を用いていることです。この技術は後に木彫り界の革命とも評されました。
1907年に同門の山崎朝雲らと一緒に「日本彫刻会」を結成します。また、その年に行われた第1回東京勧業博覧会で出品した「清宵」が一等賞を受賞します。この作品は1910年にロンドンで行われた日英博覧会でも金賞を受賞し、2002年になると文化庁から登録美術品として登録されています。
その他にも「仙丹」、「竹取翁」、「旅人」などの代表作があります。長野県善光寺の「仁王像」は、師匠の高村光雲と合作して作り上げた作品です。
米原雲海は1925年に亡くなりましたが、米原雲海が眠る米原家墓所と墓域を同じくし、尚家の墓所があります。これは彼の娘である福子の婚家となっています。彼の娘は最後の琉球国王の尚泰の六男である尚光に嫁ぎ、これが墓所が同じ敷地内にあるわけです。
略歴
1869年 | 出雲国安来(現:島根県安来市)に生まれる |
1890年 | 上京し高村光雲に師事 |
1894年 | 「雲海」と号す |
1895年 | 東京美術学校雇となる |
1903年 | 第5回内国勧業博覧会に出品した「幼児と林檎」が入賞 |
1907年 | 平櫛田中、山崎朝雲らと日本彫刻会を結成 |
1907年 | 第一回東京勧業博覧会に出品した「清宵」が一等賞を受賞 |
1910年 | ロンドンで開催された日英博覧会で「清宵」が金賞となる |
1919年 | 高村光雲との合作で長野善光寺の仁王像を完成させる |
1925年 | 死去。享年57歳 |