益田鈍翁について
益田鈍翁(ますだ どんのう)は、三井財閥の最高緒経営者として活躍した実業家であり、晩年には茶人としても名を馳せた人物で、「千利休以来の大茶人」とも称されています。鈍翁は号で、本名は益田孝(ますだ たかし)といいます。
近代数寄者としても有名な鈍翁は、小田原に別邸「掃雲台」に建設した茶室で多くの数寄者と茶会を催し交流を深めます。そこから小田原や箱根へと近代茶人らが集まるようになります。近代茶人らの中でも益田鈍翁は、茶人として名高い原三渓、松永耳庵とともに近代三大茶人の一人とも称されています。
鈍翁という名の由来は、鈍翁が還暦の年の1908年頃に手に入れた表千家6世家元覚々斎の楽焼茶碗「鈍太郎」だといわれています。それ以前は「観涛」と号してます。茶道具の収集家であった鈍翁は、「鈍太郎」以外にも弘法大師筆「崔子玉座右銘」を手に入れています。そしてその翌年には大師会を開いて披露しています。
益田鈍翁が日本の美術品を収集するのには個人的な趣味もありましたが、それと共に日本の貴重な財産である美術品が海外に流出するのを防ぐ意味もあったといわれています。
益田鈍翁は昭和13年、91歳に掃雲台で死去し、その墓所は護国寺にあります。
略歴
1848年 | 佐渡国雑太郡相川町に生まれる |
1863年 | フランスに派遣し幕府の遣欧使節団に参加 |
1867年 | 旗本となる |
1868年 | 騎兵頭並に昇進 |
1869年 | ウォルシュ・ホール商会に1年間勤務 |
1872年 | 大蔵省に入り、造幣権頭となり大阪へ赴任 |
1874年 | 先収会社の東京本店頭取(副社長)に就任する |
1876年 | 中外物価新報を創刊 |
1876年 | 三井物産設立し、初代総轄(社長)に就任する |
1889年 | 三池炭鉱社(後の三井鉱山)を設立 |
1892年 | 社長退任 |
1896年 | 東京品川御殿山の自邸で大師会茶会を開催 |
1900年 | 台湾製糖を設立 |
1906年 | 小田原市の板橋に別邸掃雲台を建設 |
1914年 | 三井財閥から引退 |
1918年 | 男爵に叙せられる |
1938年 | 逝去。享年91歳 |