清宮質文について
清宮質文(せいみや なおぶみ)は1917年に東京で生まれ、木版画家として活躍した日本の芸術家です。
版画家の父を持つ清宮質文は、中学を卒業後、美術の道に進み、現在の東京芸術大学に入学しています。卒業後は中学校の美術教師になりますが、、戦争が始まり応召されました。実家が東京大空襲により被災したことで、清宮質文が手掛けてきた作品の多くが焼失してしまっています。
1953年に東京美術学校時代の同級生によるゲフ会の結成に参加したのをきっかけに画業に専念し、木版画の制作を開始します。グループ結成の翌年、東京美術館で開催された第31回春陽会展に初出品した「巫女」が初入選し、洋画家の岡鹿之助に激励を受け、広く注目を集めることになります。以降は1974年の第51回展まで出品を続ける常連となりました。「葦」「キリコ」「告別」などの作品も有名です。
清宮質文の作風は、内面に世界を拡げる考え方がベースにあり、作品によって色や摺りを変えることにこだわり、作品の詩情を表現しています。自身を詩人に例え、絵で表現する詩人と述べていることから、木版画の捉え方からして違うことが分かります。
清宮質文が用いる技法は、それまでの木版画とは大きく異なり、彫った線に絵の具を溜めて摺る板ぼかしと呼ばれるものが代表的です。版画家でありながら水彩画やガラス絵の作品にも挑戦しているので、様々な表現に挑戦した意欲的な木版画家だといえるでしょう。
略歴
1917年 | 画家清宮彬の長男として東京都新宿区に生まれる |
1930年 | 麻布中学校入学 |
1935年 | 麻布中学校卒業後、同舟舎絵画研究所に入所し駒井哲郎に出会う |
1937年 | 東京美術学校油絵科に入学 |
1942年 | 東京美術学校油画科を卒業 |
1942年 | 長野県上田中学校の美術教師となる |
1944年 | 慶應義塾工業学校の美術教師となるが、召集により陸軍歩兵部隊入隊 |
1945年 | 東京大空襲で制作した作品が焼失する。慶應義塾工業学校に復職 |
1949年 | 慶應義塾工業学校を辞職 |
1953年 | 東京美術学校時代の同級生によるグループ「ゲフの会」結成に参加 |
1954年 | 第31回春陽会展に「巫女」を初出品し初入選する |
1957年 | 春陽会会員となる |
1958年 | 東京のサエグサ画廊で初個展「清宮質文作品展」開催 |
1959年 | 松井亮子と結婚 |
1960年 | 東京の南天子画廊で「清宮質文木版画展」開催 |
1962年 | 第3回東京国際版画ビエンナーレ展に「枯葉」「蝶(ある空間)」を招待出品 |
1970年 | 名古屋のフォルム画廊で個展開催 |
1972年 | 版画集「暗い夕日」を刊行 |
1974年 | 第51回春陽会展に「告別」を出品。春陽会展における最後の出品 |
1991年 | 心筋梗塞のため逝去。享年73歳 |
1994年 | 練馬区立美術館で「駒井哲郎・清宮質文二人展」開催 |