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川喜田半泥子作品はすべての商品が我楽洞では高額買取対象です
川喜田半泥子(かわきたはんでいし)は、日本の陶芸家・書家・芸術家です。
有名な百貨店や博物館などで数々の個展を開いた川喜田半泥子の作品を高価で買取しております。ぜひ一度、陶器・陶芸に詳しい我楽洞にご相談ください。
我楽洞では、川喜田半泥子の作品の買取を強化しておりますので、ぜひご相談ください。
どなた様であっても丁寧にご説明、査定を行いますので、初めての方でも安心してご依頼いただけます。
川喜田半泥子作品の買取について
略歴
1878年 | 11月6日大阪府大阪市に生まれる。 幼名は善太郎。 |
1900年 | 東京専門学校(現早稲田大学商学部)に入学。 |
1903年 | 百五銀行取締役に就任。 |
1909年 | 津市議会議員に当選。 |
1912年 | この頃から千歳山の土で楽焼を試みる。 |
1925年 | 千歳山に石炭窯を築き初釜を焚く。 |
1932年 | 自己流の本窯で初めて意にかなうものができる。 |
1933年 | 川喜田商店300年のお祝いに登り窯の寄贈を受け、小山富士夫の設計で二袋煙突式の松薪窯を千歳山に築いて、轆轤場を「泥仏堂」と名付け号とする。 |
1934年 | 加藤唐九郎が初めて千歳山に来る。 |
1936年 | 「焼のも趣味」に「泥仏堂日録」を書き始める。 備前に金重陶陽を訪ね、加藤唐九郎と唐津に中里太郎衛門を訪ね、尾張喜多山に尼水荘天狗窯完成。 |
1937年 | 初めて赤絵を試みる 朝鮮半島を旅行して山田満吉郎を訪ね、廃窯を築きなおして一窯焚く 東京星岡山の茶屋で「無作法師作陶展」を開く。 |
1941年 | 千歳山に三笠宮を迎え、貞明皇太后に茶碗4椀、水差し1口を献上。 |
1942年 | 荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休雪ら人間国宝三人と「かねひら会」を結成。 |
1963年 | 10月26日老衰のため死去。享年84歳。 |
1964年~ | 半泥子の死後も数多くの展覧会が行われ1989年には「現代陶芸の先覚 魯山人 半泥子展」などが開催されている。オークションなどにも多数出展されていて、現在もテレビの鑑定番組にも出展されています。 |
川喜田半泥子(かわきた はんでいし)は、明治に生まれ大正から昭和にかけて50歳になるまでは実業家・政治家として活躍した陶芸家です。
三重県有数の金融機関「百五銀行」頭取や明治生命の監査役などいくつもの会社の要職を務めた上、三重県会議員まで務めながらも、元々の趣味の陶芸にて「東の魯山人、西の半泥子」「昭和の光悦」などと呼ばれるまで有名になった人物です。
また、1942年に金重陶陽、荒川豊蔵、三輪休和らの人間国宝と「からひね会」を結成したことでも有名です。
仁和寺から仁清窯復興の相談があった際は、仁和寺岡本慈航門跡の喜寿祝として仁和寺土で作った茶碗77椀を贈ります。すると「バカヤロウ」と怒鳴られた半泥子は、「ナルホド」と悟り、以後「莫加野盧(ばかやろう)」「鳴穂堂(なるほどう)主人」の別号を用いるようになります。
川喜田半泥子が唯一芸の師と仰いだのは、本阿弥光悦でした。芸について光悦は素人であり、作品を売る必要がない、ゆえに己の欲するものを造ることができたと言う光悦同様、半泥子も多方面に才能を発揮しました。
また、半泥子の作品には「陶印」がないことで有名です。それは光悦から「売り物として作ってない」という心の元を受け継いだからといわれており、実際に生前は販売ではなく贈答したという話しか残っていません。
川喜田半泥子は、陶器、茶の湯、書など趣味も多彩な人物でした。料理も趣味ひとつであり好んで作っていました。陶芸家で料理家と言えば北大路魯山人が有名ですが、半泥子も料理の世界で影響力を多数残しています。
創業明治22年の東京・三田に開業した東洋軒の看板メニューである「ブラックカレー」の話は有名で、す。東洋軒といえば日本洋食文化の草分け的存在で、三代目料理長は「天皇の料理番」としてドラマ化され佐藤健が演じた「秋山徳蔵」です。現在でも人気を誇り、東京・名古屋を含め9店舗も展開しています。
東洋軒は、昭和3年に半泥子の勧めにより三重県津市の自社・百五銀行本店4階に「宮内庁御用達 東京東洋軒出張所」を開業しました。看板メニューである「ブラックカレー」は半泥子が当時の料理長に「黒いカレーは出来ないか?」と持ち掛け、開発してもらったのが始まりと言われています。
川喜田半泥子が日本で一番こよなく愛し、足しげく通ったお店「料亭 はま作」は、廣永の住まい(現在は石水博物館)の近隣にありました。現在でも半泥子が書いた「忘蛙亭(ぼうけいてい)」(帰ることを忘れる)、「又来亭(ゆうらいてい)」(また来る)、「一寸亭(いっすんてい)」(ちょっと来る)という三枚の看板が使用されております。
川喜田半泥子の代表作品
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- しら菊「菊花茶碗」
- 半泥子の他にも桃山時代の陶芸の復興に力を尽くした陶工はいる。だが本当に桃山の陶芸を復興させるということは、桃山に学びこれを乗り越えることである。この作品は三笠宮御台臨の時、その前で絵付けしたものである。
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- 藤絵水指「廣永窯」
- この水指、胴を締め、口は開き気味。藤を描き、その上から釉を掛けた。二重掛けの、上の釉が焼成中に一部剥落して、まるで梅雨時の靄(もや)の様にけぶっている。半泥子は、終生この水指を傍らに置いて愛用した。
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- 山月「刻文八寸」
- この八寸は粗い土を使ったため、口辺の部分が歪んだり切れたりしていて、いわゆる「べべら口」になり器体の緑は不安定に波打つ。それらをなだめつつ焼締めしている。見込み(内側)に描かれた線刻は鋭く、凛としたものがある。
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- 赤不動「志野茶碗」
- 飲み口は厚く、その下で少しくびれた後、豊かに膨れながら下降する。素焼きをせずに釉を掛けているので古志野は素焼きをせずに、長石単味の釉薬を生掛けした。内側に厚く掛けたため、釉が乾くにしたがって器体に亀裂が生じて大きな亀裂には金泥を施した。
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- 雪の曙「粉引茶碗」
- この茶碗、窯変による桃色の美しさに目を奪われる。轆轤の勢いを残した口縁も、その破調がかえって美しい。施釉時の豪快な指跡から、素地の鉄色が覗き、それがまるで雪の上に付けられた人の足跡如くである。
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- 薄氷「千歳窯」
- 「唐津手風灰釉茶碗」釉薬で焼かれた地の中に小さい石ハゼが見られる。高台付近がさわさわしているのが特徴です。
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- 一声「刷毛目茶碗」
- 刷毛目は陶器の加飾法の一種で泥漿にした化粧土を刷毛や藁で素地に塗り目を作る。ろくろから外した後に手により形付け、低い高台が見どころ。
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- 初音「唐津手茶碗」
- 千歳山に自分で築いた窯での、初釜、初轆轤による作品。千歳山の土を使い、長江寿泉からもらった唐津釉をかけ、たまたま窯の中でできたキズを木の幹に見立て、白釉で梅の花をあしらった作品になった。
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- 慾袋「伊賀水差」
- 茶碗、窯変による桃色の美しさに目を奪われる。ろくろの勢いを残した口縁もその破調がかえって美しい。施釉時の豪快な指跡から素地の鉄色が覗き、それがまるで雪の上に付けられた人の足跡如くである。
川喜田半泥子作品の高額査定ポイント
人気の作品なら査定額に期待
川喜田半泥子は、年代により様々な窯や各地の土を使い、様々な作風の作品を作成しております。そして年代により作陶した数が変わってきますので、作陶数の少ない年代のものが好まれます。
保存状態は査定に大きく影響
作品にカビやシミ、日焼けあるいは破れ・破損がある場合には、査定に大きく影響してしまいます。普段から風通しの良く直射日光が当たらない場所に保管するのが良いでしょう。
鑑定書があれば査定がよりスムーズに
対象の作品に鑑定書があれば、査定の際に一緒にご提示ください。鑑定書があることによって一定の価値が確認でき買取がよりスムーズに行なうことができます。
共箱は一緒に
陶磁器を入れる共箱は一緒にご提示ください。もしも共箱が無い場合には買取価格が下がってしまうことがあります。
所載物・本に出てる作品は査定額に期待
美術関連の雑誌や、本に掲載されている作品は、高価買取が可能です。
川喜田半泥子の買取実績
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- 熱田「志野茶碗」
- かせた肌と自然釉の景色が調和していて、施釉時の控え目な指跡から素地の色が覗き優しく丸みを帯びた茶碗になっている。
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- 花橘「志野茶碗」
- 飲み口は厚く、そのまま緩やかに太くなり低めの高台になっている。素焼きをしないで釉をかけた為、釉が乾くに従って器全体に亀裂が生じた作品になっている。
川喜田半泥子作品の買取に関してよくあるご質問
三重県の親族宅に川喜田半泥子の作品が二点あり、買取をお願いしたいと思いますが可能ですか??
我楽洞では日本全国出張無料で買取に伺うことが可能です。ぜひ一度ご連絡下さい。
神奈川県住まいなので持ち込みも出来なくはないのですがもし高価な品だったとすると自分で運んで破損させても嫌なので出張査定をお願いしたいのですが。
我楽洞では日本全国出張無料なので近隣(神奈川県・東京都)でも伺うことが可能です。ぜひ一度ご相談下さい。
川喜田半泥子作品と祖父に言い聞かされて頂いた作品なんですが、鑑定書がありません。状態は良いと思うのですが出張査定は可能ですか?
ぜひ拝見させて下さい。お時間が合わなければLINE簡単査定も出来ます。ぜひ一度ご相談下さい。